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旅から老いの暮らしが見えてくる

金曜の午後から出て今日が8月1日水曜日、すでに家を離れて5日目。長くなってくると、今までの日々の暮らしが見えてくる。例えば、普段はマンション暮らしなので庭に下りてしゃがむというような動作が少なくて、そういった体の使い方が出来ていないことを忘れてしまっているのです。マンションなので鍵ひとつ閉めてしまえば戸締りもすぐに終わってしまう。暮らしの工夫も練りあがってきているので、面倒なことは上手く回避できているのです。それが旅という環境の違いから、回避できずに次々と降りかかってくるのです。昨夜は、夕方暗い中を玄関から下の駐車場まで短い下りの小道を降りていくのですが、そこで母は後ろに尻もちをつき、立ち上がれなくなってしまいました。夜の間中、母は「こんなにも動けなくなってるとはねえ」を連発していました。

昨日はバリアフリーをうたう屋外花壇と展望台のある施設に行ってきました。斜面の花壇とそれに続く展望台への登りをゴルフカートのような乗り物で歩かずにめぐることができるのです。もちろん歩ければ花畑の真ん中を進むことができ、好きなところで立ち止まって景色をゆっくり眺められる徒歩のほうがいいに決まっています。が、それはご老体には無理というものです。カートで上がった展望台からは素晴らしい眺めを見ることができました。
カートに乗ってとことこ
やっぱりエンジン音がうるさいです
展望台

しかし、バリアフリーといいつつも、展望台周辺の散策路は一周で1000m程はあったようで、杖をつきながらでは苦しかったようです。今日はあまり歩かせないで済むかなと思って行ったのですが、散策路を前にして方針変更、叱咤激励、普段の「歩かない生活」に気づいてもらう昨日の目論見の延長戦になってしまいました。ちょっと酷だったかな。
散策路
基本植え込んである植物

「老化を感じ認識する」ことの難しさ。
旅に出ると、「日常、感じなくてすんでいる自分の老化に気が付くことができる。」と言いましたが、環境が変わればすぐに認識できるという単純なことではありません。今回、母は脚の不調をやはりうまく伝えることができません。以前受けた半月板損傷のせいで歩くことが苦手で痛みを訴えていたのですが、一昨日、昨日ちょっと歩く距離を増やすと辛さを訴えるのでなく「わたしは行かない」「もどる」「いい」という表現です。痛いのか?と尋ねると「痛くはない」という返事です。どこなの?と尋ねると「ふくらはぎ」を示します。筋や腱ではなくて筋肉のようです。素人考えで安直な判断はいけませんが、常々歩くことが極端に少ない母は筋肉痛になってしまったようです。心配していた膝を指さして、ここは痛くないのかと尋ねると、「そこはいい。痛くない。」という答えです。それではなぜ歩けなくなってしまったのでしょうか。それを直接尋ねると困ったような顔をします。気が付くと朝起きあがってくると腰にサポート腹巻を巻いていたりします。この時は、脚が痛くなって歩きたくないという以外に、しんどいからもういい、というニュアンスが汲んで取れました。両親との同居をはじめて気が付くのですが、年寄りは痛みや不調をうまく訴えることができないのが普通なのです。「痛くない」と答えたにもかかわらず、その直後に「痛くて動かない」と言ってみたりします。痛いというより動かない、出来ない、という事が先に結果として分かってしまうという事でもあるようです。動かし方を忘れると体は固まってしまい、それを昔の記憶をたどって動かそうとすると痛くなって動かせないように思えます。老化は動かし方を忘れることから始まるのかな?と感じています。
老化に限らずしばらく走っていなかったのに急に走ると足の動きがちぐはぐでスムーズに走れないという経験は僕にもあります。毎日同じことの繰り返し、生活環境もずっと同じ状態で暮らしていると、自分の老化を感じることすらも忘れてしまうのではないでしょうか。
老いとどう向き合っていくかという課題に対して、活動の豊かさ、単調な生活の中に閉じこもらないというポイントが大切なのかなと今日は感じています。



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